経営改革

中興の祖・7代目利助による経営改革

7代目利助は6代目の長男に生まれ、1771(明和8)年に家督を継いだ。7代目は経営組織に大改革を加え、経営の基礎を安泰にするため腐心した、まさに西川家の中興の祖といえる。

家督を継いだ翌1772(明和9)年は、重商主義的な政策を推し進める田沼意次時代のさなかで、世の中は華やかであったが、全国各地で災害が多発した。「とんだメイワク(明和9)」とさえ呼ばれた年であった。江戸時代には200余りの大火が起こったが、1657(明暦3)年の振袖火事(明暦の大火)、1772(明和9)年の目黒大円寺からの出火、1806(文化3)年の芝車町からの出火は特に大きく、「江戸の三大火」と呼ばれている。その目黒大円寺からの大火が、1770、1(明和7、8)年の干ばつに続いて1772年に起き、また、諸国でも水害などの災害が相次いだ。さらに1783(天明3)年は、浅間山の大噴火に続いて大飢饉となり、全国規模で広がって数年間続いた。この「天明の大飢饉」による餓死者は数十万人に上るといわれる。

このように、江戸時代の地域社会は火事や地震による被害を何度も受け、復旧・復興を繰り返してきた。当時は、災害に対して保険制度などがなかったため、その復旧費用は全面的に被災者の負担となっていた。西川家では、このような不時の出費に備えるための工夫として、積立金制度である「除よけぎん銀」の制度を整えた。江戸中期には、各店の純益を本家の総収入から一応区別して積み立て、臨時の出費に充てるという制度を確立したのである。その後、各支店から「地代」を徴収し、商人に貸し付けることも開始した。

つまみだな万京店勘定帳』(1788〈天明8〉年書写)

この「除銀」と「地代」という形で利益金の運用が行われるようになり、『定法書』に定められた。利益金を本家に積み立て、火災などの不時の出費に充てるとともに、利益金の積立が累積してくると、それを現金で持つ危険を避けて家屋敷の購入に充て、その家屋敷から地代を徴収し、さらにその地代を貸付金に回す仕組みを確立したのである。西川家では、こうした自己資金でさまざまな難局を切り抜けていった。

『除銀帳』(1753〈宝暦3〉~ 1869〈明治2〉年)
『定法書』(1799〈寛政11〉年に7代目により制定された西川家の家憲)

三ツ割銀の制度化と別家制度の明確化

田沼意次は、天明の大飢饉による一揆の増加や度重なる賄賂への批判などから失脚し、次に老中となった松平定信によって「寛政の改革」が行われた。この時、過度な緊縮財政、腐敗禁止による急速な不景気、棄捐令による借金の帳消しなどで商業は大きな危機を迎える。

そのような中、7代目は第二の改革である「三ツ割銀制度」を実施し、店員の士気を高めた。1789(寛政元)年、従来の店の利益配分を改めて、毎年2期勘定の純益を3等分し、そのひとつを奉公人に配分することにしたのである。これによって各店の奉公人はいっそう勤勉に奉公するようになった。

第三の改革は、西川家が3代目ごろから始めた、奉公人に分家の資格を与える別家制度の『定法目録』を1799(寛政11)年に定め、別家の権限・義務を明確化したことである。これは、本家・親類・別家の3者の共同責任体制を明確にして、末長い発展を期すものであった。

このような画期的な改革だけでなく、7代目はこれらの改革にあたって、創業以来の古記録を整理複写してその参考とした。現在、われわれが西川家創業以来の経過を知る手掛かりとなるほとんどの史料は、7代目によって整理されたものである。

『別家定鑑』
(別家衆で定めた定法細則)
1874(明治7)年 つまみだな万京店の『三ツ割銀預り帳』
1672(寛文12)年7月の『江戸表店算用帳』

Column天明の大飢饉

賄賂政治で名高い田沼意次が老中であった安永・天明期(1772~1786年)には、新田開発など殖産興業策が行われた。また、商人から税金を取るために、株仲間を積極的に公認したため、新旧商人の対立を引き起こしながらも商品経済が全国的に発展していった。

この時期には天災地変も頻発した。1770、1(明和7、8)年の干ばつ、翌1772(明和9)年の江戸大火、諸国の水害と災害続きであったため、年号を安永と改めて平安が続くように祈ったほどであった。だが、1783(天明3)年、浅間山の大噴火に続いて大飢饉となり、これが全国的な規模で数年間続いた。餓死者は数十万人といわれる。

新旧商人の対立を生みながら進む商品経済の発展と、疲れきった農村という状況は、封建支配者にとって重大な問題であった。田沼意次の後を受けた老中・松平定信による寛政の改革が行われるのはこの直後である。

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