西川の創業

仁右衛門による西川の創業

西川家初代の仁右衛門は、1549(天文18)年、近江国蒲生郡南津田村に生まれ、数え19歳で商売を始めた。西川家では、1566(永禄9)年をもって創業の年と定めている。
戦国の世にあって、桶狭間の戦いで今川義元の首をとった織田信長が1576(天正4)年に安土城を築き、楽市楽座を開始した。信長は1582(天正10)年の本能寺の変で明智光秀に倒され、その明智を討った豊臣秀吉が天下人となった。

秀吉の甥である秀次は、1585(天正13)年、近江八幡山城を築き、城下を区画して城下町をつくった。初代はこの時、近江国八幡町に移住し、大工組として工務監督を務めている。翌1586年には、八幡町でも楽市楽座の方針が宣言された。

このような革新的な機運のさなかで、初代は1587(天正15)年八幡町に店を設け、本格的な事業活動を開始した。これが西川家の本店山形屋山形屋のおこりである。そのころは、能登国(石川県)鹿磯(かいそ)へ息子たちを交互にともなって、さまざまな物産の行商をして歩いた。

蚊帳売り図(文政年間、岳亭五岳)
山形屋の屋号をかたどったかわら

しかし、1589(天正17)年、秀吉に待望の長男・鶴丸が誕生したため、1595(文禄4)年、秀次は切腹に追い込まれ、八幡山城は築城からわずか10年で廃城となった。城下町も厳しさを増す中で、のちに近江商人の特徴といわれる「倹約」と外地へ出てゆく「開拓」の気質が形成されていった。1600(慶長5)年には、関ヶ原において天下分け目の戦いがあり、石田三成を中心とする西軍が徳川家康の東軍に敗れ、1603(慶長8)年江戸に幕府が開かれる。さらに1615(元和元)年、大坂夏の陣で家康は大坂城を攻略し、政権が豊臣氏から徳川氏へ完全移行した。初代は、この政変に対してすばやく対応し、同年、近江八幡に本店を構え、江戸・日本橋に出店を設けた。この店をつまみだな(つまみだな)店と呼んだ。仁右衛門は96歳の天寿を全うするまで、織田信長から徳川家康まで次々と入れ替わる天下人の争いや遷都にも柔軟に対応し、西川の基礎を築き上げたのである。

Column日本橋の今昔

日本橋は、歌川広重などの浮世絵にも見られるように、付近には大商店が軒を並べ、人馬の往来も盛んで、江戸一番の繁華街であった。
正月の初御成りには、将軍の上野寛永寺参詣に随行した大名たちの帰途の行列が日本橋を渡り、その情景は壮麗を極めたという。
創架時の規模は不詳であるが、1618(元和4)年の改架のときは、橋長37 間、幅4間といわれた。しかし、木造の橋の寿命は短く、江戸の相次ぐ火災によりたびたび焼失し、江戸時代を通じて17回も改架されたという記録が残っている。
1872(明治5)年に再び改架が行われ、橋長28間、幅6間となり、さらに1911(明治44)年には大改築が行われた。このときには、全面に花こう岩が敷き詰められ、幅も15間と当初の4倍近くになり、車道と歩道の区別もついた。
その後は、関東大震災や戦火にも耐え、現在に至っている。しかし、1963(昭和38)年、東京オリンピックに向けた道路整備によって、日本橋の真上に高速道路が建設され、長い栄光の歴史を持つ日本橋も、昔日の面影を失ってしまった。

Column佐々成政の「さらさら越え」

本能寺の変(1582年)ののち、豊臣秀吉、徳川家康、柴田勝家、織田信雄、佐々成政らが主導権争いを繰り広げた。織田家の忠臣であった佐々成政は、1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いに家康や信雄と結び、秀吉に対抗した。しかし、秀吉と信雄との間で和議が成立し、家康も秀吉と停戦してしまった。富山城主であった成政は、織田家の再興を家康に進言すべく、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて一路浜松へと向かった。厳冬期の北アルプスは、積雪が18~20mもあり、雪崩も多く、零下20~30℃という極寒の山岳地域である。芦あし峅くら寺じ の山案内など冬山の環境に通じた人々が協力してくれたからこそ可能であったといわれている。この決死の冬山突破は、「さらさら越え」として長く語り継がれている。
しかし、家康の説得に失敗し、失意のもと秀吉の傘下に入ることとなった成政は、その後、秀吉より与えられた領土である肥後(現・熊本県)で自らの失政がもたらした国人一揆を鎮めることができず、責任をとって切腹した。現在の西川産業社長・西川八一行は、この佐々成政の末裔である。

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