西川チェーンって
どんな店?

西川三社統合を前に、
創業の地を訪ね、
450余年にわたる
西川の歴史を紐解く

もともと、近江八幡を発祥とし1つの会社であった西川は、
第2次世界大戦のさなか東京・大阪・京都と3つの株式会社に独立。
戦後もそのまま別々の会社として
歩んできました。
この度、2019年春、約80年ぶりに再統合するのを前に、
現在も発祥の地に残されている「西川甚五郎本店」を訪ねました。
この西川のルーツといえる「西川甚五郎本店」を、
歴史編・建物編と2回にわたって
お届けします。
まずは、歴史編として、永禄9年(1566年)の創業から、
今日の西川の基盤が
確立される明治初期まで、
時代の背景とともに重要な出来事に迫りました。
インタビューにお答えいただくのは
奥村武司支配人。
聞き手は、西川産業㈱の武士(たけし)です。
さらに、今回は公益財団法人西川文化財団が管理する西川史料庫も訪問し、
大切に保管されている古文書の数々や古地図などを、特別に拝見させていただきました。

先見の明で商いを広げ、近江から江戸まで販路を拡大した初代。

西川家は永禄9年(1566年)の創業とされていますが、当時はどのような状況だったのでしょうか?

初代・西川仁右衛門は、現在の「西川甚五郎本店」に近い近江国蒲生郡南津田村で生まれ、19歳になった永禄9年(1566年)、蚊帳と生活用品の販売を開業しました。天秤棒を肩に担いで売り歩く、行商人としてスタートしています。

かつて津田内湖と呼ばれる内海に面し、ヨシの原生林が見られたであろう南津田村。(写真は現在の西の湖)

その後、天正10年(1582年)に「本能寺の変」で織田信長が自害し、天正13年(1585年)には豊臣秀次が、八幡山山頂に「八幡山城」を築城しました。この時、初代・仁右衛門は大工組として公務監督を務めています。翌年、八幡町は楽市楽座が開かれることに。多くの商人が移り住んで、賑わい始めるのですが、初代はその兆候を見逃しませんでした。

八幡山の麓、八幡公園に建つ豊臣秀次像。

城下町の形成中であった天正15年(1587年)、南津田村から近江国八幡町(現:近江八幡市)に移って居を構え、本店「山形屋山形屋」を開設したのです。その場所こそ、本店が建つ、正にこの場所。初代が40歳の時のことになります。

「西川甚五郎本店」と付近の街並み。

初代は先見の明があったということですね。それにしても、城下町に出店するのは簡単ではなかったのではないでしょうか?

そうですね。初代は、かねてから地の利を得て商家を設けたいと望んでいたようで、町が開かれたときを契機と捉え、すかさず移り住んだということです。目先の利く商人として、優れた資質を備えていたと言えるでしょう。
また、工務監督として「八幡山城」の築城に関わったことで、(実績が認められて)城下町の良い場所に出店できたと思われます。

江戸時代の近江八幡の古地図。

山形屋山形屋」の開設後は、どういった商いを行っていたのですか?

店を設けたことで本格的な活動を開始し、さまざまな物産を能登(現:石川県)まで行商していました。また、能登では魚類の加工品や塩物を仕入れて持ち帰り、こちらで売り歩いたのです。
この時、奈良産の「奈良蚊帳」を北陸方面に販売したと伝えられており、のちに「蚊帳の西川」いわれるほどの主力商品に成長していきます。
やがて、地元産「イ草」を原料にした「近江表(畳表)」の商売も開始。新たな販路を開拓し、美濃(現:岐阜県)や尾張(現:愛知県)まで売り歩いていきました。
さらに、1600年代に入ってからは、「八幡蚊帳」の製造をスタート。それまでは「奈良蚊帳」を仕入れて販売していたところを、本格的に地元近江八幡での製造・販売に乗り出したのです。次第に売人も増やし、三河(現:愛知県)や遠江(現:静岡県)にまで販路を拡大していきます。

順調に商売を大きくしていったことが伺えます。本店の「山形屋山形屋」に加えて、支店を設けるような動きもあったのでしょうか?

扱う商品や販売エリアが広がるにつれて、各地方に倉庫となるような場所は確保していったようです。例えば、常宿(商人たちを対象にした指定の宿泊施設)の一角に置かせておいてもらったり、現地に蔵を借りて保管しておいたり。遠方への商売には重たい荷物(畳や蚊帳)などは船や馬を使い、天秤棒は商品見本や手形、雨具などを持ち歩いていたようで、常宿は荷物の中継地点として使われていたようです。

なるほど。天秤棒はいまでいうビジネスバックのようなもので、大型荷物は馬を使って常宿に送っていたわけですね。常宿を出張所と置き換えて想像すると、なんだか現代とあまり変わりないスタイルとも言えそうです。

そうですね。常宿は出張所のようだと言えるかもしれませんね。ただ、現代と違って自分の足で歩くので大変なことに変わりはないですが(笑)。
話しを戻しますと、本格的な支店は元和元年(1615年)に江戸日本橋に開設した「つまみ店店(つまみだな)」が最初です。そしてこれには、当時の情勢が大きく影響しています。

江戸時代の「つまみ店店」の様子。

遡ること15年前の慶長5年(1600年)には「関ヶ原の戦い」があり、慶長8年(1603年)には徳川家康が江戸幕府を開きました。そうして江戸では海の埋め立てなど土地開発が進み、慶長9年(1604年)からは日本橋を基点として、東海道はじめ五街道に一里塚が築かれていきます。そして、元和元年(1615年)には「大阪夏の陣」。豊臣家は滅亡します。
初代はこうした情勢を商人の目で見守っていましたが、豊臣家滅亡と同じ年に、江戸に出店したわけです。この動きは、実に機敏だったと伝えられています。
当時はまだ商売の中心は大阪でしたが、これから江戸が栄えていくという、正に始まりのタイミング。いち早く進出していることから、ここでも初代の先見の明が発揮されたと言えます。

江戸の古地図。

なるほど。とは言え、素早く江戸に、しかも一等地の日本橋に出店できたというのは、また何らかの実績が影響しているのでしょうか?

そうですね。「大阪夏の陣」の出兵の際、八幡商人は徳川側に物資の供給を支援されたとされ、その功績が認められて、日本橋へ誘致されたと考えられています。もちろん、江戸の町づくりのために、各地から商人を集めたいという幕府の考えもあったと思いますが。
それにしても、西川家が与えられた場所は、東海道の始点である日本橋通町筋の通一丁目。その最も日本橋寄りの一等地ですから、大したものです。
ちなみに、日本橋に出店した「つまみ店店」は、今でも日本橋西川として営業が続けられています。

日本橋付近の古地図。

当時の場所(店)を江戸の町が開かれてから、ずっと大切に守ってきたということですよね。ところで、「つまみ店店」の「つまみだな」とは、どういう意味なのでしょうか?

正確には分かりません。ただ、摘み田(ツミタあるいはツミダと読みます)が由来かもしれないという仮説があります。
摘み田とは、田植えによらないで、直接田に種もみをまく方法で稲作が行われる田んぼのことです。現在は苗代で育てた苗を植えるのが主流ですが、かつては泥深い田んぼが多く、そのような田んぼでは種もみを指でつまんで直接田んぼに蒔いていました。
推測の域を出ませんが、「江戸の埋め立て開拓地に種を蒔き、育てる店」という思いを込めたのかもしれません。

付加価値の発見で、蚊帳に革命をもたらした2代目。

2代目は、画期的な蚊帳を生み出したそうですね?

はい。西川家2代目は、初代の四男である甚五郎が継ぎました。家督を相続したのは、寛永5年(1628年)。初代が80歳、2代目が47歳の時と言われています。
2代目もまた、創意工夫して家業を発展させた努力家。特に、蚊帳について研究を重ねました。昔の蚊帳は麻生地をそのまま織り出したものであり、本当に質素で見苦しいものだったようです。行商しながら、日夜改良に苦心を重ね、ついに縁に紅布を付け、生地に萌黄色の染色を施した「萌黄蚊帳」を創案したのです。

「萌黄蚊帳」のアイデアはどのようにして生まれたのでしょうか?

ある日、箱根越えをしていた際に、疲れたので木陰で横になりまして。その時、一面に緑色のつたかずらが広がる野原にいる夢を見たのですが、若葉の色が目に映えて、まるで仙境にいるようだったのだとか。そこで、「涼味溢れる緑に囲まれたシーンを目にすれば、蚊帳の中にいる人の気持ちを和ませ、爽快な気持ちにさせるだろう」と考え、このイメージを蚊帳に再現したのです。
「萌黄蚊帳」は近江の蚊帳の象徴となり、「近江蚊帳」として人気を博しました。

「涼味の爽快感」という付加価値の重要性に気付いて、それを実現したのですね。ところで、そもそもなぜ当時は、蚊帳にそれほどの需要があったのでしょうか?

昔は、ガラス戸はもちろん、アルミサッシも網戸もないため、家の中に容易に虫が入ってきたんですよね。文字通りの「蚊」だけでなく、大きな虫までも。そのため、蚊帳は生活必需品であり、昭和初期まで西川家の主力商品でした。
さらに、「つまみ店店」を構えた江戸に目をやると、周辺は埋め立て地。湿地帯は虫が多く発生しますので、なおのこと蚊帳が重宝されたと考えられます。ちなみに、宝永3年(1706年)には、江戸町奉行より蚊帳問屋に指定されています。

諸改革で厳しい時代を切り抜け、西川中興の祖と称えられる7代目。

寛保元年(1741年)には江戸京橋に「かくまん(かくまん)店」、寛延3年(1750年)には京都に「京店」を開くなど、3代目以降も順調に事業を拡大していったようですが、西川の歴史上では特に7代目が“中興の祖”とされていますよね?なぜでしょうか?

明和8年(1771年)に家督を継いだ7代目利助は、厳しい情勢の中で経営組織に大改革を加え、経営の基礎を磐石にした人物だからです。
7代目に代わってすぐの明和9年(1772年)は、「とんだメイワク(明和9)」と呼ばれた年。その前後に大きな災害が相次ぎました。
明和7年(1770年)~8年(1771年)の干ばつに続いて、明和9年(1772年)には目黒大円寺からの大火が発生。江戸時代には計200以上の大火が起こりましたが、中でも「江戸の三大火」と呼ばれたものの一つです。また、諸国でも水害などの災害が相次ぎました。
さらに天明3年(1783年)は、浅間山の大噴火に続いて「天明の大飢饉」。数年間にわたって全国規模に広がり、餓死者は数十万人に上ったと言われています。そして、天明7年(1787年)に、「寛政の改革」が始まるのです。

本当に災害が多かったのですね。そんな時代に、7代目はどういった改革を行ったのでしょうか?

一つ目は、積立金制度の改革です。
少し遡り、西川家では6代目の頃より臨時の出費を「除銀(よけぎん)」と呼び、次第にその必要に備えて利益を積み立てておくといった整備がなされてきていました。
また、積立金が累積してくると、現金で保管しておく危険を避けて家屋敷の購入に充て、その家屋敷から「地代」を徴収。さらにその「地代」を貸付金に回すといった運用が図られていました。
そうした流れを受け、寛政11年(1799年)、7代目は「除銀」と「地代」をさらに整備。きちんと制度化し、『定法書』に定めたのです。

『定法書』の原本。

内容としては、利益と「地代」の一部を、「普請金」「仏事金」「用意金」という3つの用途に区分し、遊金として積み立てておくということ。
しかも、やはり焼失などのリスクがある現金保管は避け、確実な担保をとって貸し付け、元利が一定額を超えれば、さらに土地・屋敷を買い入れていきました。今で言う保険会社と被保険者を同時に行うようなものですね。
当時は災害に対して保険制度などなかったため、復旧費用は全面的に被災者の負担になっていた時代。頻発する災害の中を生き抜いてこられたのは、この制度改革が大きかったことは言うまでもありません。

つまみ店店」「かくまん店」共に何度も被災したようですが、きちんと積み立てがあったからこそ、その都度立て直してこられたのですね。他にはどういった改革を行ったのですか?

寛政元年(1789年)には、新たに「三ツ割銀制度」を設置しています。これは年に2回、勘定した純益の3分の1を、奉公人に配分するというもの。今で言うボーナス制度ですね。これによって、奉公人は精を出して働き、比例して利益も上がっていきました。

各奉公人の三ツ割銀を記した『三ツ割銀預り帳』の原本。

また、寛政12年(1800年)には、3代目の頃より始まった奉公人に分家の資格を与える別家制度の『定法目録』を定め、別家の権限と義務を明文化。これによって、本家・親類・別家の3者の共同責任体制が明確にされ、末永い発展を期すものとなりました。

別家衆で定めた定法細則『別家定帳』の原本。

このように、大きく3つの画期的な改革を行った7代目ですが、彼はこれらの改革にあたって、創業以来の古記録を整理複写して参照していました。つまり、現在私たちが見られる史料のほとんどは、7代目によって整理されたものなのです。そう考えると、これも偉大な功績と言えるでしょう。

改めて認識したい、今に続く西川の商人道。

初代より、常に時代を先読みする経営を続けてきたことで、発展してきたことがよく分かりました。さまざまな記録も残っているようですが、ずっと受け継がれている、ポリシーのようなものはあるのでしょうか?

文化4年(1807年)の『勘定目録帳』を見てみましょう。現在の決算報告書のようなものですので、在庫、仕入、売上、諸経費、利益が記載されています。そして、注目いただきたいのは、末尾に記載されている「定」。いわゆる家訓のようなものなのですが、要約すると、
・約束は守ること。
・店で働く者は仲良く、家業は怠けることなく、一生懸命精を出すこと。
・品質を十分に見極め、舟間之節(ふなまのせち)でも価格を釣り上げて販売してはならない。
・世間の害になることはしてはいけない。
といったことが書かれています。

『勘定目録帳』の原本。

内容的には、コンプライアンスとCSRですね。この「定」は、以降の『勘定目録帳』にもずっと記載され続けていますし、毎月1日は、各店で奉公人に読み聞かせていたそうです。

こうした「定」の内容を奉公人たちが共通認識として持っていたことも、西川が途絶えることなく発展し続けてきた理由なのでしょうね。ちなみに、「舟間之節(ふなまのせち)」とは何ですか?

当時、各地から江戸へと物品を乗せた船が行き交っていましたが、海が荒れて船の入港がなくて、荷が途切れることも多々あったようで、そのことを指しています。物品が着かなければ品薄になり、物価が上がる。価格を釣り上げて余分の口銭を取る者もいたのです。
そういった場合でも、西川はいつも通りの価格で販売していました。ここでも「三方よし」を経営哲学とする近江商人らしさ、西川らしさがよく表れていると思います。この「定」は、過去から現在にも通じる、西川の商いの道と言えるでしょう。

その後の関東大震災や2つの大戦を乗り越えられたのも、実直かつ革新的な経営をしてきたからこそ。
時代が変わっても、先人達の精神を受け継いできたからこそ、今日まで生き残ってこれたのだと思います。
歴史編は以上です。次回は「西川甚五郎本店」の建物編です。

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